『ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語』



ステータス:読了
評価(最高が5つ星):☆☆
覚えておきたい言葉(引用):
(三島由紀夫にふれて)世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に、気持ちよく生きられたら、そのほうがはるかにいいことではないか。そんなふうにぼくは思うのです。(『ひきこもれ』大和書房)

きみたちの仲良くしている立派な市民だとおもっている隣人や隣人の子が、家庭内暴力を苦にして子どもを殺害したり、逆に親が子どもから殺されてしまったとする。そうなったとき、きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。あの隣人もその子どももいい人だったが、そこまで追い詰められてしまった、気の毒だというとおもう。なぜかといえば、善なる人が状況によって悪を犯すこともあれば、他人や近親を殺害することも、ありうるからだ。

誰がどうなるか判らないそんな人生の中では、私達はそれこそ本当に、力一ぱいに苦しい目にあつたら苦しみ、楽しい目にあつたら楽しみ、自分の及ぶ限り、力かぎり生きて行くより外にどんな道があるのでせうか

幸・不幸とかも、長く大きくとらないで、短く、小さなことでも、一日の中でも移り変わりがあるんだよと小刻みにとらえて、大きな幸せとか大きな不幸というふうに考えない。(略)そういうふうに大きさを切り刻むということ、時間を細かく刻んで、その都度いい気分だったら幸福だと思い、悪い気分だったら不幸だと思う。

この世に「幸福なる家族」なんていません。「不幸なる家族」もいない。あるとき幸福でも、次の瞬間不幸になるかもしれない。社会的な条件が整っても、個人が幸福であるとはいえないし、社会的な条件が整わなくても、とても幸せということはありうる。

「現実の身体の死なんて、明日死ぬというときになったら考えればいい」
明日の死を、今日煩うな。ようするに死なんか考えなくていいということだ。「明日死ぬというときに」以下はそういうことである。まだ死んでもいないのに、死に怯えるのは意味がない。たしかに「死の恐怖なんて、そんなのはあるのが当たり前」だが、そんなこと考えてもしかたがない。死ねば死にきりで、「尊厳死もヘチマもない」。
高村光太郎の詩の中の「死ねば死にきり 自然は水際立っている」という言葉が吉本は好きだという。「僕は人間の身心の死はこれでいいのではないかと思います」(『遺書』)

感想など:金沢旅行中に読んでいた本。「死ねば死にきり 自然は水際立っている」という言葉は昔、吉本氏の本を読んで気に入っていた。高村光太郎の詩だったか。今度読んでみる。

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