『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』


ステータス:読了
評価(最高が5つ星):☆☆☆☆
個人的なポイント:
9月に購入して、チビチビ読んでようやく読了。長かった。村上さんのインタビューはたいてい読んでいることから、「ゆっくり再読するか」と、ちょっとペースが遅かった。けど、最後まで読むと、村上さんの言わんとすることがきちんと伝わってきた。『考える人』のインタビューと合わせて読めば◎。以下、引用と雑感。

(前略)ただ若い人には多くの場合、「チェッキング・システム」のようなものがまだ具わっていません。ある見解や行動が、客観的に見て正しいか正しくないかを査定するシステムが、彼らの中で定まっていないのです。
 そういう「査定基準」みたいなものを彼らに与えるのは、我々小説家のひとつの役目ではないかと僕は考えています。もしその物語が正しいものであれば、それは読者にものごとを判断するためのひとつのシステムを与えることができると僕は考えます。何が間違っていて、何が間違っていないかを認識するシステム。僕は思うんだけど、物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そしてその靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見ることになる。そのように善き物語を通して、あなたは世界の中にある何かを徐々に学んでいくことになります。しかしそのような若者たちが実際に与えられたのは、決して「善き物語」ではありませんでした。教祖である麻原は若者にその物語を与え、彼らはその物語のパワーの中に閉じ込められてしまった。麻原はそういう強い力を持っていたようです。悪しき力を発揮する物語を与える力を。そういう面で、ことの是非はともかく、僕は彼らに同情しないわけにはいかないのです。残念に思わないわけにはいかない。僕らが人々に対して——とくに若い人に対して——「善き物語」を十分に与えられなかったことについて。

 僕の祖母や母は、それぞれが信じる宗教を持っていました。それは、それぞれの死生観に大きな影響を与え、一定の安心をもたらしていたようにも思います。なので、宗教の力を否定的にはとらえていませんが、今のところ僕は無宗教です。時々思うのですが、これまで読んできた物語(村上さん言うところの他人の靴に足を入れること)が総合的に「信じるもの」を形作っているように思います。物語を自分の人生と重ね合わせることで、指針のようなものを得ていると思います。そして、その指針はひとつひとつの物語の中から自分ですくいあげてきているものなので、ズシリと自分の中に残っています。それが善き物語であったことを願います。

 30代後半から40代になれば、普通は結婚をして子どもができて、そんなこと考えるひまがなくなる。子どもを学校にやって、住宅ローンを払って、部下も飲みに連れていかなくちゃいけない。女の人も子どもの世話をして、でも、他にやりたいことがあるしで、自分自身が孤独に生きていくことの価値について、深く考える機会がなくなってくる。でも、10代はもちろん20代から30代前半、特に30歳になる前後という迷う頃だし、自分にとって人生の価値とは何なのかを真剣に考える時期で、僕の物語を求めるのは、やっぱりそういう人たちなんじゃないかという気がするんです。僕自身にしても、この年になってもそのことはつねに考え続けている。別に若作りをしているというんじゃなくて、それを考えないと、僕にとって小説は書けないものだから。

10、20、30代(前半)と生きて思うのは、当たり前ですがそれぞれ抱えている悩みが違うということです。10、20代は自立した生活を送るのに四苦八苦していて、今は人生のタイムリミットをひしひしと感じている。日本人の平均寿命を考えれば、まだあるようにも思うけど、きっとここでの判断が人生レース終盤の流れになるのだろうと。ちゃんと決めないと、な。

 今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現していきている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。

このくだりは、昔、読んだ時に「本当にそうだよなぁ」と思ったところです。そもそもなんで自己表現が求められるようなったんだろう。村上龍氏も「この国では、1日生き延びたということ以外にいろいろ求められる」(記憶で書いているので適当ですが)というようなことを言ってました。

 長編だろうが短編だろうが、まずだいいちに、書くことが楽しくなければ小説なんて書けません。だから僕がまずいちばんに考えるのは、書くのが楽しいという状況に、できるだけ自分を置き続けるということですね。長編には長編の楽しみがあるし、短編には短編の楽しみがある。楽しみ方の種類が違うだけです。楽しいことに変わりはない。小説を書く苦しみについてはよく語られるけど、苦しいのは当たり前のことでしょう。僕はそう思う。ゼロから何かを生み出して立ち上げることが、苦しくないわけがないんです。そんなこといちいちことわるまでもない。僕にとって大事なのは、それがいかに楽しいかということです。

こういう姿勢は本当に尊敬します。

(前略)僕の考える「総合小説」っていうのは、とにかく長いこと、とにかく重いこと(笑)。そしていろんな人物が、特異な人から普通の人まで登場してきて、いろんな異なったパースペクティブが有機的に重ね合わされていく小説であること。そういう感じになります。そうするとこれは当然ながら、一人称ではとても書ききれません。だからさっき、長期的に見れば、僕の小説は一人称から三人称へのシフトの過程だって言ったのは、そういう意味合いもあるんです。結局僕としては、どうしてもそういう場所に行きたかったんでしょうね。
 いろんな話が出てきて、絡み合い一つになって、そこにある種の猥雑さがあり、おかしさがあり、シリアスさがあり、ひとつには括れないカオス的状況があり、同時にまた背骨をなす世界観がある。そんないろんな相反するファクターが詰まっている、るつぼみたいなものが、ぼくの考える総合小説なんです。

むかし、一人称から三人称に変わった変化についてメールで質問したことがあります。返信には確とした答えはありませんでしたが、つまるところ、こういうことなんでしょうね。納得。

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