題名:「死ぬことと生きること」
ステータス:読了
評価(最高が5つ星):☆☆
覚えておきたい一文:
「人間はなかなか死なないものだと、
誰がいおうとも、ぼくは信じない。
人間の善意や愛情とはかかわりなしに、
死は、不意に、容赦なく襲ってくる。
(中略)
ぼくが写真においてリアリズムの立場をとるのも、
つまりは、人間の全存在を決定する事実というものの
絶対性に帰依するからである。そしてカメラの
メカニズムこそは、事実そのものの鋭敏なレコーダーであり、
逆にまた仮借ない嘘発見器でもある。
それは自分と他人の生きていることの実証そのもである。
もしメタフィジカルな思考そのものを志向するなら、
ぼくたちはカメラを捨てて、ペンをとるなり、
絵筆をとる方がいい。
ぼく自身は、ペンにも絵筆にも託しきれないものを志向して、
カメラをとり、そして写真のリアリズムに達したと告白しよう」
「写真発明術の初期においては、レンズも感光材料も非常に
幼稚で不便なものだった。当時の写真家はもちろん、
時代の尖端を行く進歩的な知識人だったが、
モチーフたる人物に対する解釈をどう写真化するかというよりは
何よりもまず写るか写らないかということが一大事だった。
何とかして写そうという機械的な科学的な操作だけで
せい一杯だった。写される方も自分の姿を写真に残そう、
写されようとむきになっていた。されば近藤勇のように、
虎鉄を膝に引きよせて何十秒も息を殺してレンズを
睨みつけていたのだった。主観とか解釈とかそういう
末梢的な思いつきが問題ではなく、撮る者も撮られる者も
写るか写らぬか、つまり記録という機械的、
技術的操作の中に一体となってしがみついていたわけだった。
像はすなわち形である。つまりその生きた姿を、
生きた形を如何に残すか、ということで必死だったわけだった。
明治頃、写真を撮られると寿命が縮まるという俗説が生まれたのも、
写真というものが、生きた姿をそのままに写し撮るということ、
それだけにまた撮られる者の生きた姿が、つまりは生命が
うすれるという恐怖をあたえたにちがいなかった。
撮る者、つまり写真家の主観的な解釈などというものは、
問題ですらなかった。写真術発明の初期においては、
リアリズム以外に写真というものはあり得なかったのである」
ひとことコメント:
この文を読んで、ああ、だから写真の中の近藤勇は
あんなに難しい顔をしていたのか、と思った。
こわいもんね、あの顔。
今年こそ土門拳記念館に行く予定なので、
いい予習になりました。
