『街道をゆく 台湾紀行』

ステータス:読了
評価(最高が5つ星):☆☆☆
覚えておきたい言葉:

 私は、この正月にはじめて台湾を訪れた。いつでも行けると思っていたから、つい怠ってきたのである。そのことを”老台北”にいうと、
「台湾にも、そういう言いまわしがあります。”阿里山にはいつでもいける”」
 と、いってくれた。”老台北”は、いつでもゆけるから、私もまだ阿里山には行ったことがない、といった。

 中国は前漢の武帝以来、儒教が国教とされ、2000年以上もそれがドグマとしてつづいた。
 つらぬいて人治主義だった。
 身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。その手足の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が興りにくかった。
(中略)
 ひとびとの側にたって考えてみる。
 歴朝の私が人民にとって餓えた虎でありつづけた以上、ひとびとはしたたかに私として自衛せざるをえなかったのである。国族主義どころではない。
 王朝からの害をふせぐには宗族で団結するほかなく、このため、国家という場からみれば「ひとにぎりの砂」たらざるをえなかった。

(日本は)全島に、防疫運動も展開した。日本人があまりにペストさわぎをするので、台湾人たちは日本人がペストを台湾にもちこんだとかんちがいしたらしい。

「植民地というのは、トクな面がある。その本国のいちばんいい所が植民地で展開されるからだ」
 というのは、李登輝さんの史観である。

 明治32(1899)年、広井勇は教授として東大にまねかれ、土木学を講じた。
「なんのために工学あるか」
 という哲学的な話をしきりに語ったという。八田興一も聴いたはずである。
 もし工学が唯に人生を煩雑にするのみならば何の意味もない。これによって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、それによって得られた時間で静かに人生を思椎し、反省し、神に帰るの余裕を与えることにならなければ、われらの工学には全く意味を見出すことはできない。(「現代日本土木史」より)

 スニヨン・中村輝夫の出現について、新聞がさかんに報じた。これほどめでだい話もないのだが、ただこまったのはスニヨン(中村輝夫)の妻だった。彼女はスニヨンが出征するときすでに身ごもっていて、その後、男児を出産した。
 彼女は、夫の帰りを10年待った。ついにあきらめて、べつの男を婿にとった。
 その婿も仰天したはずである。かれはスニヨンが残した妻子を養って21年のあいだ、よく働いた。天に苦情を言えるとすればこの人こそ叫ぶべきだったが、かれにはかれの堅牢な道理があったらしく、だまって家を去った。72歳だった。

感想など:台湾旅行はあんまり無理せずに、夕方、一度ホテルに戻って昼寝していた。寝る前やら夜に読んでいたのが司馬さんの本。旅の途中、その土地の本を読むのが好きです。行きたいところが急に見つかって慌てることも多いが。

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