沖縄本島の最南端の平和記念公園へ。戦没者の名を記した平和の礎が建つ。記念公園の後、ひめゆりの塔にも行った。これまであまり沖縄の歴史を知らなかったので、よい機会となった。
旅のあいだ、「戦争と沖縄」という本を読んでいました。沖縄はこれまでに中国、薩摩、明治政府、日本軍、米軍から支配や差別を受けており、いまも米軍基地が集中する。やはり特別な地域で、本土との距離はいまだ遠いように感じた。
以下、本より引用。
沖縄戦をさらに悲惨なものに追いこんだのは、日本軍の無謀な行動にほかなりません。
アメリカ軍が上陸するまぎわになって、食糧も家も準備されてない本島北部の、畑さえわずかしかない山林地帯に、多数の住民を避難させたために、餓死者が出るほどの食糧難に追いこまれました。
また、最初の上陸地となった慶良間列島の渡嘉敷村では、島に駐留していた「赤松隊」という日本軍の部隊によって、住民は集団自決に追いこまれ、329名が一瞬にして命を奪われました。
座間味島でも283名が集団自決をし、また、小さな島の食糧は不足したために、住民の農産物や食糧にたいして、軍がきびしい徴発と統制をおこない、違反をする者をつぎつぎに殺してしまいました。これらの小さな島々には、ほとんど食糧などの準備がなかったのです。そこへアメリカ軍が上陸し、沖縄本島との連絡は絶たれてしまい、島にいた日本の軍隊は、力ずくで住民の食糧を奪うあさましい姿に変わってしまったのです。
軍人9万4000人、住民15万人といわれる人名を失い、生き残った人びとも、地獄のなかをさまよいつづけた80日あまりの沖縄戦は終わりました。
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薩摩藩が沖縄を侵略した目的は、薩摩藩が沖縄の中国貿易を独占するためでしたので、薩摩が琉球王国を支配していることが中国に知れては都合が悪いと考えていました。
そして中国の冊封使が沖縄にくる時期には、日本の年号や日本人と似たような氏名、日本語の名称を禁止し、また日本の書物や道具、はてはフンドシまでも立札を立てて取り締まるというしまつでした。そしていよいよ冊封使がくると、那覇にいた在番奉行をはじめ薩摩の役人たちは田舎にかくれていました。
このように中国にたいしては、琉球王国を薩摩が支配しているということをひたかくしにしながら、日本本土には、琉球王国を支配していることを、薩摩の威力をしめすための宣伝に使いました。
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沖縄で「唐いも」とよばれたさつまいもは、沖縄から薩摩に伝えられ、そのため薩摩では「琉球いも」とよばれていました。
いまでは日本全国どこでも「さつまいも」とよばれていますが、日本本土に広めたのが薩摩藩だったために、いつのまにか「さつまいも」になってしまいました。



