須賀敦子さんは、エッセイストとして一番好きかもしれない。繊細な心と固い意志を持って、ずっと何かの答えを探し求め続けた人、そんなイメージを持っている。彼女はミラノのコルシカ書店に参加する前、ローマに滞在していた。日本での仕事をやめて渡欧して、わずかな頃だ。自分の道を必死に探そうとしていた頃。
いつかはじぶんにぴったりと合うような、
そんな道が開けるはずだ。
その日が来るまでは待つ以外にない。
そうじぶんにいいきかせて、
ときには呼吸しつづけることだけを
みずからに課していたローマでの二年間。
『ユルスナールの靴』
そんな彼女がローマ滞在時に通っていたといわれるサンタンセルモ教会。日本で買った地図にも場所が載ってなくて、見つからないかな、と思っていたらアヴェンティーノの丘のそばにありました。予想外の発見。
下記は『須賀敦子のローマ』の一文。
サンタンセルモ教会を出ると、道にはひと気がなく、太陽だけが生き生きとしていた。高い堀に囲まれた庭木のあいだから、大きな館がのぞき見える。外観は陽の光を浴びて弁柄色に照り輝き、屋根までのびた椰子の尖った葉の影が壁に焼きついている。いつのまにか日が高く昇っていた。
テヴェレ河と反対の方向に坂を下りながら、私は須賀の二十代の日々を振り返った。聖心女学院高等専門学校で学んだあと、新設されたばかりの聖心女子大学に入り、卒業の翌年、親の反対を押し切って慶応義塾大学大学院に進学。だが一年でそこを中退し、二十四歳のとき、パリに留学する。
パリで二年間勉強して帰国。しばらく日本放送協会国際局に勤務するが、一九五八年、ふたたび日本を離れる決意をする。行き先はパリではなくローマで、半年たらずで三十歳をむかえる初秋のころ、この街に到着した。
現代ならば、向学心の強い女性がこのような道をたどるのは珍しいことではない。仕事に就いていた者が人生を考えなおすために外国暮らしをするケースも増えているが、須賀の時代はちがった。「結婚適齢期」などという言葉がまだ健在で、二十歳を過ぎた女性の大半は「嫁ぎ遅れる」ことがないよう、大学に進まず花嫁修業をすることがほとんだった。勉学をつづけることは、結婚して家庭に入るという大多数の女性の生き方を放棄し、社会の価値観と闘う覚悟が必要だった。
カトリックへの入信、大学院進学、パリ留学と、若いころの須賀は親の反対する道を選びつづけている。三十歳にあと一歩という年齢でローマに来たとき、家族を、そしてなによりも自分自身を、納得させるに十分な成果を上げることができるだろうかと、喜びと同じ量の不安を抱いていたことだろう。


